「会社なんてどこで働こうが同じだよ!」
この言葉は、転職を繰り返す人に投げかけられる言葉です。
私も転職回数は多い方なので、よく言われます。
この言葉の意味するところは、会社で働く以上は「雇われの身」なのだからどこの会社で働こうが同じであるということです。
しかし、私はこの考えに反論したい。
「たとえ雇われの身であっても、会社によって得られる満足度が異なるのだ!」と。
そうであるから、働く者にとって「どこの会社で働こうが同じである」ということにはなりません。
会社と一口に言っても、自分が希望する物を提供してくれる会社と、提供してくれない会社があります。
当然、誰しも自分が希望する物を提供してくれる会社で働きたいでしょう。
今回は、自分が希望する物を提供しくれる会社で働くことの重要性について説明します。
会社はどこで働こうが同じだという意見を持つ人とは。
「会社はどこで働こうが同じ」という意見があります。
この意見の根拠は、どこの会社で働いても「雇われの身」である以上は、会社の命じられるままに従うしかないということです。
異動命令は言うに及ばず、日常業務においても、直属の上司の指示された範囲内でしか動くことはできません。
このことに関しては、どこの会社で働こうと同じです。
つまり、雇われの身は檻の中の制限された空間でしか動けないということです。
そこで大事なことは「その事実を受け入れたうえで、会社という存在をどのように捉える」かということです。
「会社はどこも同じだ」と言っている人は、会社を生活費を稼ぐ場所として考えている人です。
だから、どこで働こうが、それほど大差ないといった考えを持っているのです。
こうした考えをもつ人は主体性をもって仕事するタイプではありません。
受身で仕事をやるタイプです。
もっとわかりやすく言えば「指示されたことだけをやって給料を貰う」という考えの持ち主です。
そして、基本的には転職はしません。
・給料が安かろうが生活できる範囲内であれば、我慢します。
・休みが少なかろうが、残業が多かろうが、我慢します。
・上司と折り合いが悪かろうが、我慢します。
どこの会社に行っても多少の差はあれ、我慢しながら仕事をすることに変わりはないといった考えです。
転職する人は、会社を希望を叶えるための箱物と見なしている。
「会社で働くことは、檻の中の制限された空間で働いているようなもの。それは、どこの会社にいても同じ」と考えている人がいます。
その一方で、会社という空間を希望を満たしてくれる箱物と捉えている人、そして、時には自分の希望を満たしてくれる箱物を求めて移動する人がいます。
つまり『転職をする人』のことです。
転職する人は、会社で働くことに不自由な面があることを百も承知です。
しかし、そのなかでも自分の希望するものを手にして満足感を得ようとします。
自分の希望するものとは人それぞれに異なります。
やりがいであったり、自分の成長であったり、または高い給料であったり、社会的地位であったりと。
例えば、会社に自己成長を求めている人がいまの会社でそれに満足できなければ、自己成長できる会社へ移ります。
会社を箱物とみなして、その会社が提供するコンテンツに興味を持てるかどうかです。
コンテンツに満足いかなければ、サヨナラして別の満足感を得られる会社に転職するだけです。
転職する人は雇われているという状況に嫌悪感はありません。
むしろ、雇われているから自由に辞めることができて、他の会社に行けるのだと考えている部分もあります。
会社員で雇われの身であるから、その時々の自分の希望するものの変化に応じて会社を変えていくことができるのです。
若い時分には実力をつけたい、成長したいということであれば成長できる会社で働けばよいのです。
そして、年齢が上がるにつれて、高い給料を得たいのであれば、高給を提供してくれる会社に転職すれば良いのです。
その時々に応じて、自分の希望を満たしてくれる会社へ移ればよいのです。
会社はただの箱物にすぎない存在です。
おわりに
会社員が雇われの身で不自由だからといって起業しても、基本的には、やることは変わりません。
朝起きて、電車に揺られて会社に行く。
そして、仕事をする。
ぐったり疲れて、帰りは電車の中で寝入ってしまう。
そのような生活です。
雇われの身であろうと、起業して自由の身になろうと、やることは同じです。
であれば、雇われの身が不自由という固定概念を捨てて、会社員のまま満足感を求めたほうが賢いやり方ではありませんか。
会社は選び放題です。
あなたが選んだ会社が、あなたの希望するものを提供してくれる会社であれば、あなたは楽しく働くことができます。
これは、紛れもない事実です。
だから、会社はどこで働こうが同じだという考えは間違っているのです。
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